音楽への道(編集中)
山形県新庄市 – 実家
音楽とは関係のない家庭に生まれ育ちました。記憶にはほとんどないのですが、幼稚園ではヤマハのエレクトーンを習ったのですが「こんなの男子がするものじゃない」と言ってやめたらしいです。
その後小学生時代は水泳と剣道を習いました。特に水泳は頑張っていたと思います。市の大会ではバタフライ50mで優勝しました。
この時は水泳の選手が夢でした。
セントラルスポーツに通い、1級まで進みました。
夢
「夢」というと今でも鮮明に覚えていることがあります。
小学校の同級生の児玉有平くん。彼は漫画家を目指していて「将来、手塚治虫のようにみんなを笑顔にできる、幸せにできる漫画を描きたい」と言っていました。「小学生でそこまでしっかり夢を持てるって、すごいな」とその当時感じ、自分も自然と真剣に考えるようになりました。
中学では水泳部、と思ったのですが、学校にプールがなく、条件が特殊であったために入部ができませんでした。
そんな中先輩の誘いを受け陸上部へ。110mハードルと砲丸をメインに取り組みました。
そして、音楽との出会いがありました。
音楽の先生である白畑先生。とてもエネルギッシュなおばちゃん先生で、ちょっとグレ気味の男子達の扱いも非常に慣れていました。自分の声を聞いて「井上!いい声だな!将来は二期会だな!!」と。その先生は声楽ではなくピアノがメインの方だったのですが。。自分はといえば、「二期会???」と全く当時は分からず、しかも今その通りになるとは。。
実は変声期が早く、小学校高学年では低い声で歌うのが嫌で、あまり歌うこと自体が好きでなくなっていました。
しかし中学に進み、周りも変声期を迎え、そんな中白畑先生との出会いもあり、一気に音楽、歌が楽しくなってきました。
そんな中、とても悲しく、とてもショッキングな事件が。
児玉くんがいじめにより殺されたと。新聞の記事で知りました。
中学は別々の学校に進みそれから会うことはありませんでしたが、しばらく何も考えられなくなりました。
ショック、悲しい、そんな感情一つ一つが冷静に自分の中に感じられたのは、しばらくしてからです。
そして母親が習いに行っていたピアノの先生のところへピアノを、そのピアノ先生の紹介でソプラノの大類雅子先生のところへ習いに行くようになりました。
児玉くんが教えてくれた「夢」への憧れ、渇望。勝手に、自分はそのひとかけらだけでも受け継ごうと密かに思いました。
ほとんど記憶にないと言いましたが、幼稚園の時にヤマハのエレクトーンを習っていたという経験は、譜面を読む、ということにおいて少なからず手助けしてくれました。そして水泳や剣道、陸上をやったことは、声楽をやる上で大事な体づくりを結果的に助けてくれました。特に水泳は、全身を使い、呼吸も大事なスポーツですので、声楽にとても役立ちました。
今までやったことは、ジャンルが変わってもつながってくる。そう感じています。
音楽科のある高校に進みたい、と話した時に、父は大反対でした。
今考えると当然のことで、自分が父の立場であったら、同じように言っていたと思います。
しかし、どうしても進みたい、と思い、県のジュニア音楽コンクールにただ一人中学生で参加。なんとか努力賞をいただきました。その時に、「じゃあ、やれるところまでやってみろ」ということで、なんとか、認めてもらいました。
それから山形北高音楽科へと進み、高校では同じ新庄出身のソプラノ志鎌綾子先生の元で学びました。
山形県山形市 – 下宿
高校では早朝、休憩時間、放課後と練習三昧の日々。同じ山形県とはいえ実家からは遠かったので、高校入学時に実家を離れ、3年間は山形市内に下宿。
本当に、ガムシャラに音楽に取り組んでいた記憶があります。
学生時代は、とにかく無口。大学までずっとそうだったかもしれません。
志鎌先生の紹介で、バリトンの平野忠彦先生の元へ。
厳しくも温かく、いつも気にかけていただいていました。
中途半端な演奏をしてしまい「全然ダメじゃないか!」と怒鳴られたこともあれば、「よし、それでいいんだ!」と自分の迷いを吹き飛ばしてくれたことも。
数年前に急逝されましたが、今でも「先生」ではなく「師匠」と思っているのは平野先生だけです。
本当に、心から感謝をしています。
東京
芸大
母校山形北高からは、10年近く芸大に進んだ人はいませんでした。受からなかった、ということもあったかもしれませんが、それ以上に「どうせ芸大なんて受からない」と受けなかったことの方が多かったようです。
駄目元、というところもありましたが、芸大1本に絞り、受験しました。
受けたのは自分と、ホルンの高橋(現 東フィルホルン首席)、そして1浪でバスの先輩。
なんと3人とも合格。高校では、担任が舞い上がって校内放送してしまったようでした…
師匠からは「芸大に入ることが大事なんじゃない、入ってから、卒業してからが大事なんだ」と言われていました。
なので、割と冷静でした。しかしそのテンションで家に報告すると「本当なの?ちゃんと確認しなさいね」と(苦笑)
一応もう一度確認。晴れて東京での生活が始まりました。
現役生の多い代で、皆マイペース。新たな友人もでき、彼女もでき、それなりに満喫した学生生活だったかと思います。
しかし、歌は、苦悩の4年間でした。声楽の成績が悪かったわけではないのですが、やりたいことができない。歌いたいフレージング、音色、、全て自分の実力では何一つ納得できなかった4年間。ありがたいことに学部時代から、合唱、ソロともに外の演奏のお仕事もいただきました。そう言った現場での「経験」は、そんな自分のわずかな「自信」「強み」となっていきました。
よく「良い声!昔からうまかったんだろうね」など言われることが多いですが、とんでもない。学部、大学院の間の試行錯誤、葛藤。試行錯誤の中で、なんとか様になったかな、という程度でした。持って生まれたものがもっと優れている人たちの声を聞くと、羨ましいと思ったこともありました。しかし、それは「羨ましい」と思えば手に入るものでもありません。
「羨ましい」と思ったら自分がそれ以上のものを目指せばいいし、目指さないのならとやかく言ったり思ったりしない。そう決めました。
学部時代は、ドイツ歌曲を中心に学びました。声種は、バス・バリトン。
楽譜は低声用。門下の重唱発表会でも、コッリーネ、ザラストロなどバスの役柄を演じました。
第九 デビュー
中学時代の声楽の先生からお話をいただき、山形の尾花沢市での「第九」のソロのお話をいただきました。
学部2年生の時です。オーケストラは山形交響楽団。
まさかのお話に、悩みましたが、芸大のレッスン時に平野先生に相談。冒険をさせてくれる先生でしたので「まだ早いけど、思い切ってやってみろ」と背中を押していただき、初の第九ソロに挑みました。
指揮は山響創立者の村川千秋先生。
音楽を始めるきっかけの一つとなった「第九」。そのソロのデビューを山響で、村川先生の指揮で。しかも学部2年生で。
こんなに緊張した舞台はありませんでした。テクニックも声も何もかもが足りない。そんな中で精一杯もがいた公演でした。しかし、色々な方のサポートもあり、なんとか無事終えることができました。
今でも、大切な、大事な経験、思い出の一つです。
それから幾度となく、色々なところで第九のソロをやらせていただいています。思いである作品となりました。
プロメテウス
学部時代には様々な曲を学びましたが、その中でも自分にとって大きな影響力を与えたのがH.ヴォルフの『プロメテウス』でした。学部3年の頃に、「(歌う)体を作る意味で、あまりがっつりやらないでもいいから、遊びのつもりで取り組んでみろ」と渡された曲でした。しかし、その詩、曲のエネルギーに魅せられ、先生が「もういい」と言ってもレッスンに持って行った記憶があります。学内演奏や卒業試験、院試などでもこの曲を歌いました。二期会研修所の受験でもこの曲を入れました。
人間を愛し、天に逆らい、天から火を盗み人間に与え、罰を受けたティタン神族の子プロメテウス。
多くの芸術家がこのドラマティックなプロメテウスを題材をした作品を作っています。
ゲーテもその一人で、力漲る詩を書きました。
Prometheus プロメテウス 詩:ゲーテ 日本語訳:井上雅人
Bedecke deinen Himmel, Zeus,
Mit Wolkendunst
Und übe, dem Knaben gleich,
Der Disteln köpft,
An Eichen dich und Bergeshöhn;
Mußt mir meine Erde
Doch lassen stehn
Und meine Hütte, die du nicht gebaut,
Und meinen Herd,
Um dessen Glut
Du mich beneidest.
おまえの空を覆うがいい、ゼウスよ
そしておまえの力を試してみろ
薊の花の首をちぎる子供のように
おまえの樫の木のそばで、山の頂で!
だが おれの大地はそのままにしておくのだ
おまえが建てたのではない 俺の小屋も
そして その炎のためにおまえが妬んでいる このおれの竃も
Ich kenne nichts Ärmeres
Unter der Sonn als euch, Götter!
Ihr nähret kümmerlich
Von Opfersteuern
Und Gebetshauch
Eure Majestät
Und darbtet, wären
Nicht Kinder und Bettler
Hoffnungsvolle Toren.
おれは 太陽の下で おまえたち神々ほど哀れなものたちを 他に知らぬ!
おまえたちは かろうじて 生贄の貢ぎ物と祈りの吐息とによって
おまえたちの尊厳を養い
もし 子供らや乞食らのような希望に溢れた愚かな者たちがいなければ
惨めなくらしを送ることになるのだ
Da ich ein Kind war,
Nicht wußte, wo aus noch ein,
Kehrt ich mein verirrtes Auge
Zur Sonne, als wenn drüber wär
Ein Ohr, zu hören meine Klage,
Ein Herz wie meins,
Sich des Bedrängten zu erbarmen.
おれが幼かった頃は
何もわからず おれは困惑した目を太陽に向けた
まるで その上に 俺の嘆きを聞き入れてくれる耳と
おれと同じ 苦しむ者を憐れむ心があるかのように ー
Wer half mir
Wider der Titanen Übermut?
Wer rettete vom Tode mich,
Von Sklaverei?
Hast du nicht alles selbst vollendet,
Heilig glühend Herz?
Und glühtest jung und gut,
Betrogen, Rettungsdank
Dem Schlafenden da droben?
だれが おれを高慢なティタンたちとの戦いから 助け出したのか?
だれが おれを奴隷のような暮らしから 死から救い出したのか?
お前自身が全て為し遂げたのではなかったか
神聖に燃えるおれの心よ
そして若々しく 善良に燃えたな?
天上で居眠りをしている者に騙され 救いの感謝を捧げて ー
Ich dich ehren? Wofür?
Hast du die Schmerzen gelindert
Je des Beladenen?
Hast du die Tränen gestillet
Je des Geängsteten?
Hat nicht mich zum Manne geschmiedet
Die allmächtige Zeit
Und das ewige Schicksal,
Meine Herrn und deine?
おれが おまえを敬う? 何のためにだ?
おまえは かつて 苦しむ者の苦痛を和らげたことはあったか?
おまえは かつて 不安におののく者の涙を鎮めた事はあったか?
おれを鍛え上げたのは 全能の時と永遠の運命ではなかったか?
俺の主人であり おまえの主人でもある ー
Wähntest du etwa,
Ich sollte das Leben hassen,
In Wüsten fliehen,
Weil nicht alle
Blütenträume reiften?
おまえは勘違いしているのではないか
おれが人生に嫌気をさして 砂漠にでも逃げ出すだろうなどと
花のような夢が全て実るわけではないからと ー
Hier sitz ich, forme Menschen
Nach meinem Bilde,
Ein Geschlecht, das mir gleich sei,
Zu leiden, zu weinen,
Zu genießen und zu freuen sich,
Und dein nich zu achten,
Wie ich!
おれはここに座り おれの姿をかたどり 人間をつくる
おれと同じような種族を
悩み、泣き、楽しみ、喜び、
そして おまえを敬ったりしない者を
おれと同じように!
Johann Wolfgang von Goethe, 1773
畑中先生から平野先生、そして僕へと渡ってきた曲です。
僕の中でこの曲は特別な位置にあり、また弟子へと繋いでいければと思っています。
大学院
大学院は先生と相談し「ソロ科(歌曲などをメインに学ぶコース)」を受けることにしました。
と言っても、オペラ科、ソロ科どちらも合格後に選択(オペラ希望の場合はその後にさらに試験を受ける)する形でしたので、合格後、ソロ科、で提出する予定でおりました。
しかし、、、師匠が「ごめん、オペラ科の主任になったからオペラ科きて」と(爆)
いやはや、それで180度方向転換。オペラ科へと進むことになりました。しかし、それが自分にとって、とても良い経験、勉強の期間となりました。
オペラ科では1年生は(当時は)オペラのハイライトを3回、2年生はオペラを1本。そして卒業のための修士演奏と論文、が主な取り組みになります。そして、1年は2年のオペラ公演の裏方(舞台、衣装、等)の手伝いに入ります。実際のオペラの現場で、見えないところでどれだけ大変な作業がなされているかを知ることができ、非常に勉強になりました。
ハイライトの第1、2期はチマローザの「秘密の結婚」を、第3期はモーツァルトの「フィガロの結婚」。それまでレチタティーヴォ(音程やリズムがあるもののセリフに近い状態の箇所)をそこまでたくさんやっていなかったので、故 ガルディーニ先生をはじめたくさんの外国人コーチに囲まれ、非常に質の良い勉強をさせていただきました。
大学院2年ではモーツァルト『フィガロの結婚』のタイトルロールを務めました。学部時代はドイツものメインだったので、ひたすらディクションを頑張る日々。フィガロのリブレットを全て1日2、3回は声に出し読みました。
この時の経験は今でも非常に役立っています。
3年では2年生の『コジ・ファン・トゥッテ』の助っ人としてグリエルモ役を。こちらもまた非常に自分にとって良いものとなりました。
修士演奏と論文は、平野門下の重賞発表会というコンサートで取り上げられた原嘉壽子作曲「さんせう太夫」という作品を取り上げました。太夫はバスの役柄。平野先生が初演を務められた役です。
この作品をやるにあたり非常に厄介な壁が何個かありました。
まずは作品の難しさ。原先生の作品は日本語がより自然に聞こえるようにと、変拍子が多用されています。
途中、太夫、そして子供である二郎、三郎の三重唱があり、これが変拍子の嵐で難しい。
そしてもう一つの壁が楽器編成でした。
修士演奏は通常ピアノ伴奏で行われます。ただ、この作品はピアノでやれなくはないですが、鼓や尺八などの邦楽器やチェレスタが使われていたり、非常に各楽器が効果的に使われているので、これを使わないというのは厳しいものがありました。
色々悩んだ結果、ピアノではなく、オーケストラ編成でやることとしました。
オーケストラは一人一人声をかけ、練習日程、練習場所の確保も全て自分でやりました。
そのため、時間確保のために論文は夏休み前に8,9割は書き上げました。
今考えるとなかなか無謀なことをしたなあ、と思います..
修士演奏本番では作曲の原先生にもいらしていただきました。
レベルとしてはまだまだだったと思いますが、このときできることの全ては、出し尽くせたと思っています。
オペラデビュー
大学院修了後のオペラデビューは突然やってきました。ある日突然電話をいただき、「コジ・ファン・トゥッテ」のグリエルモ役をやってほしい、と。実はグリエルモ役を体調を崩され降板された方がいて、代役をお願いしたい、昨年芸大の院でやられたのを指揮者もご存知なので、と。
その指揮者というのは若杉弘先生、そしてオケは東京フィルさん、他のキャストもそうそうたるメンバーでした。
まさかそんなところに、と思いながらも、思い切って飛び込みました。演出は非常に厳しいことで知られていた栗山先生。デビューとなる現場がここであったことは、本当に恵まれていました。
栗山先生の稽古は厳しいものでした。でもそれが、経験不足の若手であった自分達には非常にありがたいことでもありました。
それから続けて「オルフェオ」にもお声がけいただき出演いたしました。主催の東京室内歌劇場は会員ではありませんが、今まで何度も出演させていただき、ありがたかったです。
ヴィルヘルム・ケンプの歌曲
高校時代、よく様々な演奏家のCDを聴いていました。声楽はもちろん、オケや、ピアノなど。
ピアノはかなり古い演奏家の録音を中心に聴いた時期がありました。その中でも特に好きだったのが「ヴィルヘルム・ケンプ」でした。戦前、戦後と活躍したピアニスト。しかしそれ以外にもオルガニスト、そして作曲家という面も持っていました。
はじめはまだ「ピアニスト ケンプ」の存在しか知りませんでした。他のピアニストとは違う、独特の世界観、哲学を持ったピアニストで、人間的な響きのする音楽が大好きです。
そしてある日ベートーヴェンのピアノソナタ全集を購入。
その時にボーナスCDがついてたのですが、そこにケンプ作曲の歌曲が4曲、収録されていました。
「ケンプが書いた曲?!」
作曲家としてのケンプの存在を知り、驚き、それと同時に、いつかこれらの曲をやってみたい、と思うようになりました。
そしてある日、ケンプの作品について詳しい、アジアで活躍なさっている指揮者の山路さんとコンタクトを取ることができ、ケンプの楽譜の入手先を教えていただきました。そして無事取り寄せることができ、今まで数回、ケンプ歌曲を披露するコンサートを行いました。
(以下今後追加予定)
上海
海外での初の演奏は、2010年、上海万博でした。
(以下今後追加予定)
フィンランド
そしてフィンランドへの留学。故郷山形県で、山響さんのコンサートに出た際に、山響ファンクラブの方の紹介でヴァイオリンのヤンネ舘野さんと仲良くなり、コンサートを企画。その時に歌ったフィンランド歌曲「金のかけら」が可愛らしく素敵な作品だったので、もっと勉強してみたいとヤンネに話したのがきっかけでした。フィンランドのヘルシンキでマリア・ホロパイネン先生(舘野泉さんの奥様)にフィンランド歌曲を教えていただきました。
(以下今後追加予定)
日本
そしてこの時期に、もう一つのショッキングな出来事がありました。東日本大震災。
実家のある山形県は大きな被害は出ず、不幸中の幸いではありました。それでも数日は連絡が取れず、東北の他県にも知り合いも多く、生きた心地がしませんでした。
その後都内でチャリティーコンサートを数度開催。しかし、音楽仲間も、公演が「自粛」でキャンセルになったり、それぞれの生活に非常に影響の出ていた時期で、それもまた限界があり、自分自身の無力さに絶望を感じた時期でもありました。
その後、毎年、自分が現地へと赴き、演奏を届けるスタイルで、毎年継続させていただいています。
そのスタイルでも、現地の方々のご協力がなければ成せないことです。押し付けになってはいけない。毎回毎回、開催の相談から時間をかけて進めます。それでも、本当にこの選択が正解なのか、それはわかりません。でも、信じて続けていきたいとは思っています。2017年現在も継続しています。金銭面は自分側の負担となりますが(共演者の費用もこちらで負担しています)、サポートしてくださる方々もおり、心から感謝いたします。
デビュー10周年記念リサイタル (後日追加予定)
CD (後日追加予定)
企画
自分は歌曲でスタートしたのでオペラも歌曲も好きです。最近は宗教曲のソリストのお話もたくさんいただきます。
その中で「歌曲」は依頼されるケースは少ないジャンルなので、自分で企画をすることも増えてきました。
演奏家は製作を兼ねることはあまり良くないと思っています。今は素晴らしい仲間に恵まれ、小さなものを中心に進めてはいますが、本格的なものは周りの方のご尽力なしにはできないことです。人との「縁」、そして「感謝」。これもまた忘れてはいけないことだと思っています。